安宿で重なる

f:id:jyukujo:20200811121218j:plain

朝起きて、「パシャパシャ」と顔を洗ってると、真横からは「ブィーン、ブィーン」と、小さな草刈機みたいな音がする。
隣に立つ人は、聞き慣れない音でヒゲを削っている。
軽く横を向く、目が合う。軽くやさしく、会釈し合う。
こういう朝の一コマ、すき。
赤の他人と、無防備で重なり合えてる時、私は私を忘れてしまう。

また廊下に置かれた、共用の冷蔵庫は、年季の入った、半ばアンティークな色味。
扉を開くと、酒なりデザートなり、各人すきなものを、てんでバラバラに入れてるんだけど、そのちょっと雑な感じにも、どこかホッとする。

安宿に居付きたい。
それも出来れば、風呂トイレ洗面が共同の安宿がいい。
ドミトリーやゲストハウスは、相手を意識し過ぎてしまう距離感で、私には気疲れの方が大きい。でも、ココは違う。
旅先にある、カウンターだけの酒場、2つ離れた席で、物静かに酒を飲む他人は、むしろ風情だし、コレは旅情。
私は冷蔵庫からキンキンに冷えた飲むヨーグルトを取り出し、一気に飲み干す。


安宿で横たわりたい。
そう思うのは、安宿に泊まっていると、過去の宿泊者が、掛け布団と共に、私へ覆い被さり、ふしぎな夜を見せてくることが、たまにあるからだ。
くたびれた畳表、錆びついた鉄製のテレビ台には、前世紀もののブラウン管テレビ。砂壁のひび割れはセンター分けで、不格好なコーキングが施されてる。どうしようもない安宿。

部屋の灯りを全消灯し、横たわれば、
「さて、今夜はどんな夢を見せてくれるのかしら」と、私だけのコクピット内で、ふわり、夜をあおぎ、ゴクンと飲み込む。
やがて夜は手足の先端まで行き渡り、やさしく揺らしてく。

そして目を閉じれば、遠くでゲコゲコと蛙が鳴いてる。
遠くって、どこだろう。歩いて何分くらいかな。日常の街よりは、遠く離れてなかろうけどね。
しかし布団に入り、一度目を閉じてしまえば、簡単にここからは抜け出せない。途端に距離なんてどうでもよくなる。

深夜3時半過ぎに目が覚めると、私は部屋の机の脇から、人の気配を感じた。でも怖くはない。

居室の人影、どこか色気を漂わせつつ、酔い覚ましの水を飲みながら、私をそっと見てる。
きっとこの人も、眠れないんだな。って、妙な仲間意識と夜に揺られてる。

「眠れないなら、コッチにおいで」
この部屋に迷い込んだ者同士、意識が溶け合えるなら気持ちがいいもんだなって、自らこう、安宿に溶けていく。
するとホワっと、部屋全体に、どこか甘くて心地のいい、微発泡の液体が溢れだした。


「安宿、安酒、安い人生」
この部屋は、やたらと安酒のにおいがする。
でもそれも、悪くはないね。清潔過ぎる暮らしなんて、むしろ毒々しいくらいだ。

空いたグラスになみなみと注がれる安酒みたく、安宿の夜も満ちていく。
すべてが酔いの中、でもみんな、安物まみれでも、やさしい酔いの中で生きてたいんだろうよ。


どうしようもなく、気怠い朝。
「ブィーン、ブィーン」とヒゲを剃っていると、真横から「パシャパシャ」と顔を洗う音がする。花の香りもする。
軽く横を向く、目が合う。オレも、やさしく、隣の女に会釈する。