山下清に憧れて

続くよ続く、残業の日々は続く。
通りを振り返ると、行き先が真っ赤な電球で囲われたバスがいた。
なんだ、最終バスか。そんな時間か。

昨日から読み進めてる、晩年の山下清が書いた「遺作・東海道五十三次」って本が面白いな。
面白いというか、山下清の作品や旅を書いた手記の面白さが、あとがきの人も書いてたように「ちょいときゅうくつ」なの。
かつては描きたいものを、描きたいように描いていた山下清が、題材として決められた町を巡り、それだけを書き連ねる様子は、彼らしい空気感はありつつも「ちょいときゅうくつ」。
そう、町は宿場町だけじゃない。
そして、この人は題材選びから、もっと自由な人だったろうにね。

でも彼の、顔も名も売れてしまい、かつてのように放浪できない、自由さをもがれてしまってるところからわき出る何かに、あとは高度経済成長の真っ只中で、街道の人もクルマの中に消えてしまった時代を眺める観察眼に、なんだろうな。
もしかして「遺作・東海道五十三次」には、幾分、山下清の窮屈さに対する嘆きや叫びも込められてたのかな。

しかしこの本も、まだまだ読みかけだ。先が半分もある。
あしたまた続き読もう。

◆◆◆

帰宅して引き続き、山下清の「遺作・東海道五十三次」を読んでる。
しかし読むことに没頭していくほど、文章も風景画も素朴ながら、それと同時に、これは「天才の世界」だなってことにも気付く。

山下清は、放浪先では絵を描かない。
放浪先で「ぼやっと」観た風景を己の脳裏に焼き付けるだけ。そしてあとは記憶頼り。自宅やらで作品を作り上げていたという。

しかし、ぼやっとしながら観た世界を、時間差でよくこれだけ描き切れるな。
この人の頭の中には、どれだけの枚数のフィルムが眠っていて、どういったモノの見え方・重なり方してるのだろう。

もしかしてこの人は、己の脳裏に焼き付けた風景の中へでも、放浪できる人なんじゃなかろうか。
時空間飛び越え、体力も老いも関係なく、ルンペンの調子で、ぼやっと歩いていく。

マスコミに取り上げられて有名人になってしまってからの山下清は「自分がどう扱われているか」をとても気にする、ナイーブな一面の持ち主でもあったともいう。

しかし、目さえ閉じれば、元のルンペンの姿。
そして、常人には持ち得ない記憶の重なり、その向こうにある放浪の町で、誰からの評価もない世界で、彼はひとり歩いてる。

だけどズルイな。
私は山下清の「雨に降られたサザンカが冷たそうだな」と感じたり、砂丘の中を歩いていれば「海より広い砂丘だな」と感じたりと、感情や感覚をサラッと書いた文章でも、私は軽々と彼の町に連れ去られてしまう。
まあそれすら記憶の断片。天才の世界のごく一部でしかないけどね。

相変わらず仕事は忙しい。
でもこんな日記を書けるくらいには、先の見通しが立ってきたのかな。
仕事が落ち着いたら、私も私で旅に出たい。