台風と印画紙

どの店も、この店もやってない。
シャッターのある店はシャッターを下ろしていて、シャッターのない店には光がない。
そしてたまに光っている看板があっても、それは行き場なく目に刺さり、明るさ以上に色々眩しい。

大粒の雨と強い風の中、私は知らない繁華街を歩いている。
しかしこの繁華街には、私以外の人間の気配がなくて、本当に、ここはこの世だろうか。

看板の光っている店を見つけて「あの店こそは!」と期待をしても、ただ看板が光っているだけ。
カラオケボックスなら開いてそうな雰囲気を感じたけれど、看板だけで誰もいない。
歩いても、歩いても、結局そう。どこにも誰もいないから、この街には、私一人しかいない。虚しい灯りばかりが、私の胸に差し込んでくる。

どこまで行っても、ひと気のない世界。
そしてだんだん、自分自身の存在まで虚ろに感じ、私は目覚めたまま、悪い夢でも見てる気がした。
ここは今、うなされるほど、孤独の街。
でもそんな事どうだっていいんだ。とにかく、酒だ。酒が飲みたい。

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過去最大級と言われた、台風19号が日本列島に上陸した夜、私は訳あって、都内で帰宅困難者になり、某駅前のカプセルホテルにいた。

JRは早々と運休をし、「台風の目が関東を通過するのは21時ごろ」と天気予報が伝えてたのもあって、駅からカプセルホテルに向かう途中のコンビニは既にやってない。
チェックイン前、18時で閉店するコンビニに滑り込んで、最低限のパンと飲み物だけ買った。でも酒は迷いに迷って買わなかった。

しかしこの日の夜はひたすら長かった。カプセルホテルのシャワーを浴び、ラウンジで一息ついても、時計の針は思ったように進まず、まだ眠気が来る時間でもなかった。
そして夜の長さを忘れるためにも、酒が無性に飲みたくなり、一度思えば、頭の中は酒の事ばかり。
とにかく酒だ、酒が飲みたい。私は酒を求め、台風真っ只中の街に飛び出してしまった。




スマホを落として困ってます」
スマートフォンを落としました。よければ080xxxxxxxxまで連絡お願いします」
私は何とか開いてるコンビニを見つけて、酒を買えたはいいけれど、今度は台風のさなか、スマホをどこかに落としてしまった。

コンビニにいる時までは手元にあった。でもそれからがわからない。
私はラウンジでひとり青ざめている。
さっきまで「酒!酒!」と言っていたのに、いまとなっては、酒なんてまったく飲む気にもなれない。それよりスマホだ。

通話専用のガラケーからスマホに宛てて、何度も何度も着信を入れるけど、出ないし、つながらない。
そして半べそかきながら、ショートメールで、私のスマホを拾った人に向けて送信した一文、
「思い出の写真も入っているスマートフォンなので、届け出て下さると本当に助かります」
これはもう咄嗟に出た、私の願いであり、叫びだった。

しかし「思い出の写真」、それは友人や親族との思い出の写真の事ではなかった。誰かと共有している思い出なら、誰かと語り合えばいい。私が忘れても、きっと誰かがおぼえてる。
でもそうじゃない、「私だけの思い出」を撮り貯めたものはどうするんだ。



どんなものを見たって、写真が無ければ、心象風景や作り話と思われても仕方ない。
だって、同じ景色を見ている人がいないのだから。そして、私が消えれば、すべてがまぼろし

全身を印画紙にして、目の前のものを焼き付けようにも、それには到底限界があるし、人間としても限界がある。
屋久島で山ではなく海沿いの町を歩いたこと、岡山の用水路が綺麗だったこと、横浜の小高い丘に不思議な神社があったこと。
それら「私だけの思い出」も、私が消えれば、すべてがまぼろしになってしまいそうで、さっきの夜道だってそう。

全身すべてを印画紙に出来ないからこそ、写真の力を借りて、それを文字と共に焼き付ける。ただあの写真が消えてしまったら、鮮明に焼き付けることもできない。
酒飲みたさに、不要不急の外出をしてしまったのは、たしかに私だ。でも、あんまり過ぎる悪夢だ。


翌朝、カプセルホテルのテレビを点けると、千曲川が氾濫していた。
あんなに綺麗な場所なのに、そして想像以上に今回の台風の被害が大きかった事を思い知らされる。


幸いスマホは戻ってきた。
そして私は、また一つの思い出を、ここに焼き付けていく。