雪が来てくれた

街が閉ざされた週末。でも今年のうちにもう一度、白い雪が見たかった。
こういう事態でもなければ、明け方から電車に乗って、私は雪を見に行くつもりだった。

冬至から春分にかけての季節かな。
トロトロと遅い、各駅停車の横浜線で八王子まで行って、そこから中央線で西に向かうと、雪景色の車窓が待っている。
遠目の雪が、だんだん近くに見えてきて、特急の通過待ちで、島式ホームにちょこっと降り立つと、それだけで既にひんやりする。車内暖房で火照った頬に触れる、山から吹く風。皮膚のうすさを肉でも感じて、口呼吸をすれば気管まで染み渡る。そんな刺激に目が見開く。

私はまあ、そういう感じの旅がすきで、雪もすきで、雪を見に行くだけの旅だとか、そういうのがすき過ぎてたまらない。
けど、不要不急の外出は控えるように。なんて言われてしまったら仕方ない。どうしようもない。


だけどその、そういうこともあるもんだ。

雪が見たいって思っていたら、今度は雪の方からヨコハマにやって来た。
雪が私の家のベランダまで来てくれた。
3月29日にヨコハマでも雪が降った。

球春を待て

社内でのあーでもない、こーでもないに疲れ切った、土曜出勤の帰り道。
寒さに肩を縮こまらせて、色んなことを耐え忍ぶようにぎゅっと小さくなりながら、風に逆らい、駅に向かおうとする。

たまに私は、私と違う人間の考えが、どうも理解できない時がある。プライド?エゴ?支配欲?あの人は何を考えているんだ。
(なんで私たちはあんな気まぐれに翻弄されなきゃならないんだ)
(だけどあの時、お世辞でも言ってたら、少し変わったかな……)
自問自答が空回りして、ビル風と重なり、しょぼい竜巻がぐるぐる回っている。
せめてこう、吐く息だけでも雲にしたい。そう思いながら上向きで白い息を吐くけど、何も変わりっこない。

横浜スタジアムの前を通ると、ラッパの音が聴こえていた。
日が沈む前のよくわからない時間、誰もいるはずのない球場から、聴こえるはずもない、応援歌の演奏が聴こえてくるのは何故だろう。
足を止めて、私を取り囲む状況の理解出来なさに頭を抱える。疲れのあまり、逢魔が時の魔物にでも取り込まれてしまったのか。
しかし夢中になれれば、理由なんてどうだっていい。聴こえるものは聴こえるし、心も躍る。

そして、私だけじゃない。
球場前を通りすがった他のベイスターズファンたちも、足を止め、球場から流れる応援歌に対し、自然と合いの手を入れている。
ファンたちの合いの手はシーズン中の観客席さながら。みんなして思い思いに心が躍っているのもわかる。みんな春が待ち遠しいんだ。


私にとっての野球観戦。
ぶっちゃけて言うと、私は野球を観ていても、戦略的な部分とか、球種とかは、あまりわかってない。
でも試合の中での、緊迫感や緊張感はわかるし、ピンチになった時、どう駆け引きして乗り越えるか。チャンスになった時、どうその勝負をものにしていくか。それら含めて、とにかく「感じる」ものとして野球を観ている。

特に私は、仕事上がりに外野立ち見席から、疲れ混じりのほろ酔い状態で、野球観戦をするのがすきだ。
それも、元気を持て余してる時ではなく、疲れ混じりな時の方が断然いい。
疲れと酒がピシャっとハマった状態で、一球一球のボールを追ってると、頭がトロっとしてきて、色んな熱が自分に入り込んできて、それはもう、たまらない時間だ。


味方が攻撃をしている時間。
一塁側(ホームチーム側)外野立ち見席にいると、私自身が味方の応援をしつつ、応援をしてる人の背中をみながらの応援もできる。
そして外野席の応援の背中をみて、応援歌を口ずさみながら。でも外野立ち見は後ろに人がいない分、自分のペースでゆったり応援出来るのもすき。
私は子どものころから背が高くて、小さい順で並べば、大体うしろから2-3番目。体育の時間やら朝礼やらでは、俯瞰で物事を眺めることが多かったんだけど、そこが妙に定位置で、俯瞰になると私は誰にでもなれる。

応援ラッパの音の高さとタンギングに、口の中が管楽器を吹いてる時みたくなることもあれば、若い女性が、贔屓の選手に精一杯の声援を送る声に私の喉までひりつく。そのひりつきに、アルコールを流し込む。背中から私は他人に入り込む。この場所から観ればすべてが試合だ。


そして味方が守備をしている時間。
これはもう、選手たちが背中で何を語るか、考えてるか。そればかりを追っている。
けどそれも、完全に感覚の部分が大きいから、強気だとか、荒々しいとか、冷静を通り越して「ひんやりしてる」とか、うまく言葉に出来ない部分が多い。

贔屓チームの投手陣で行くなら、ヤスアキは強気、濱口遥大さんは荒々しく感情的、石田健大さんはひんやりしてる。今永昇太さんは背中を使い分けようとする意識の高さを感じる。だとか、私の感覚から来る妄想。

しかし実際の所はどうだろう。
こんな簡単に人の背中に入り込めてしまうのなら、人生もっとイージーモードだし、こんなに疲れることもない。
それに空き巣じゃあるまいし「こんな簡単に入り込まれてたまるか!」って思うよね。

でも私は球場のいちばん後ろから、野球を介して、色んな人に入り込み、心地よく漂いたがっている。選手にも、ファンにも。人に入り込む事で、一方的に気持ちよくなろうとしてる。









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世の中に私の理解できないものや、感じられないものがあるのは、くやしいし、不甲斐なさもある。
でもやっぱり私は好きなんだろうな。

くやしさを棚上げしながら、酔いの中で色んな誰かに入り込み、球場内で半ば独りよがりに、頭泳がせてる時間が、私は好きでたまらない。

また、あの球場の中で野球が観られること。
私は本当の春を待ちわびている。

台風と印画紙

どの店も、この店もやってない。
シャッターのある店はシャッターを下ろしていて、シャッターのない店には光がない。
そしてたまに光っている看板があっても、それは行き場なく目に刺さり、明るさ以上に色々眩しい。

大粒の雨と強い風の中、私は知らない繁華街を歩いている。
しかしこの繁華街には、私以外の人間の気配がなくて、本当に、ここはこの世だろうか。

看板の光っている店を見つけて「あの店こそは!」と期待をしても、ただ看板が光っているだけ。
カラオケボックスなら開いてそうな雰囲気を感じたけれど、看板だけで誰もいない。
歩いても、歩いても、結局そう。どこにも誰もいないから、この街には、私一人しかいない。虚しい灯りばかりが、私の胸に差し込んでくる。

どこまで行っても、ひと気のない世界。
そしてだんだん、自分自身の存在まで虚ろに感じ、私は目覚めたまま、悪い夢でも見てる気がした。
ここは今、うなされるほど、孤独の街。
でもそんな事どうだっていいんだ。とにかく、酒だ。酒が飲みたい。

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過去最大級と言われた、台風19号が日本列島に上陸した夜、私は訳あって、都内で帰宅困難者になり、某駅前のカプセルホテルにいた。

JRは早々と運休をし、「台風の目が関東を通過するのは21時ごろ」と天気予報が伝えてたのもあって、駅からカプセルホテルに向かう途中のコンビニは既にやってない。
チェックイン前、18時で閉店するコンビニに滑り込んで、最低限のパンと飲み物だけ買った。でも酒は迷いに迷って買わなかった。

しかしこの日の夜はひたすら長かった。カプセルホテルのシャワーを浴び、ラウンジで一息ついても、時計の針は思ったように進まず、まだ眠気が来る時間でもなかった。
そして夜の長さを忘れるためにも、酒が無性に飲みたくなり、一度思えば、頭の中は酒の事ばかり。
とにかく酒だ、酒が飲みたい。私は酒を求め、台風真っ只中の街に飛び出してしまった。




スマホを落として困ってます」
スマートフォンを落としました。よければ080xxxxxxxxまで連絡お願いします」
私は何とか開いてるコンビニを見つけて、酒を買えたはいいけれど、今度は台風のさなか、スマホをどこかに落としてしまった。

コンビニにいる時までは手元にあった。でもそれからがわからない。
私はラウンジでひとり青ざめている。
さっきまで「酒!酒!」と言っていたのに、いまとなっては、酒なんてまったく飲む気にもなれない。それよりスマホだ。

通話専用のガラケーからスマホに宛てて、何度も何度も着信を入れるけど、出ないし、つながらない。
そして半べそかきながら、ショートメールで、私のスマホを拾った人に向けて送信した一文、
「思い出の写真も入っているスマートフォンなので、届け出て下さると本当に助かります」
これはもう咄嗟に出た、私の願いであり、叫びだった。

しかし「思い出の写真」、それは友人や親族との思い出の写真の事ではなかった。誰かと共有している思い出なら、誰かと語り合えばいい。私が忘れても、きっと誰かがおぼえてる。
でもそうじゃない、「私だけの思い出」を撮り貯めたものはどうするんだ。



どんなものを見たって、写真が無ければ、心象風景や作り話と思われても仕方ない。
だって、同じ景色を見ている人がいないのだから。そして、私が消えれば、すべてがまぼろし

全身を印画紙にして、目の前のものを焼き付けようにも、それには到底限界があるし、人間としても限界がある。
屋久島で山ではなく海沿いの町を歩いたこと、岡山の用水路が綺麗だったこと、横浜の小高い丘に不思議な神社があったこと。
それら「私だけの思い出」も、私が消えれば、すべてがまぼろしになってしまいそうで、さっきの夜道だってそう。

全身すべてを印画紙に出来ないからこそ、写真の力を借りて、それを文字と共に焼き付ける。ただあの写真が消えてしまったら、鮮明に焼き付けることもできない。
酒飲みたさに、不要不急の外出をしてしまったのは、たしかに私だ。でも、あんまり過ぎる悪夢だ。


翌朝、カプセルホテルのテレビを点けると、千曲川が氾濫していた。
あんなに綺麗な場所なのに、そして想像以上に今回の台風の被害が大きかった事を思い知らされる。


幸いスマホは戻ってきた。
そして私は、また一つの思い出を、ここに焼き付けていく。

海に向かう

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私はたまに海に向かいたくなる。
マリンスポーツをしたいわけでも、釣りをしたいわけでもないのに、あと海以外にも娯楽はあるのに、どうして海に向かいたくなるんだろうか。
 
今住んでいる横浜の町は、そこまですきじゃない。でも横浜は海があってすき。
自転車でちょっと漕げば海がある。それがいい。
 
私は海がすきというより、もしかしたら、海と空が組み合わさってる風景がすきかもしれない。
それはなんとなくわかってる。
 
空の色は、彩度が高めで「大気圏越しにみる宇宙の色か」と、冒険心を掻き立てられる日もあれば、空の淡さの中にフワっとしたやさしさを感じて、包まれたくなったり、すこし甘えたくなる日もある。
 
と、そこに水平線が一本、折り目のようにすーっと伸びていて、それはビルの垂直の壁なんかよりずっと長い。
肉眼で見られるこの世で一番長い直線は、水平線じゃなかろうかと思わせる。
水平線なんて見飽きたつもりだったけど、それがこんなに見応えのあるものだったなんて。
 
あとは海の向こうが湾になっていて、あっち側の町が見えるのもすきだし、離れ小島があってもいいし、遠くにタンカーがゆっくり動いていてもいい。
 
そして海だな。
海は浅かったり深かったり、波立って白く泡立ってたり、ゆらゆらと揺らぎを感じて、とにかく漂っていたい気分になる。
特に東京湾内の海だと、波に乗るというより、穏やかなゆらぎに心をゆだねたくなる感覚が強い。
で、波音がするなら波音聴くし、潮風が吹くなら嗅ぎたいし浴びたいし、なんなら髪に潮風を纏わり付かせて、この海をすこし持ち帰りたい。
 

あと海は、夕焼けの色と溶けあったり、夜の灯りを反射しててもいい。
欲を言うなら、埋め立て地の、みなとみらいの海は人工物だな、作り物っぽいなと、すこし寂しさを感じる時はあったけれど、最近それも慣れてきた。
 
自然の力で、長い年月を掛けてうまれた地形は間違いなく本物だ。
でも埋め立ての歴史も今となっては歴史のうちだし、作り物だとしても、その作り物を作ったのは人間で、結局だれかの人格が無いとうまれてないものだからな。と考えると、まあそうだよね。
そして埋め立て地の中にある、人間味みたいなものにも気付きはじめると、それはそれで愛おしく。
 
理由なんてなくていい。みんなどこかしらの海に向かいたくなる。

飛び交う町

私にはつかず離れずな友人がいて、物理的な距離はすこし遠いけれど、たまに憂鬱な時、相手をしてくれる。
この前も「今日なら通話できるよ」って言ってくれて、出張先のビジネスホテルから、私のしょうもない話に付き合ってくれた。

18時半。私は職場を出て、家に向かおうとする。そして、スマホと通話のスイッチを入れる。
駅のガード下を潜ると、頭上を走る電車の音がうるさい。
でもイヤホン越しに「ああ、京浜東北の線路の下辺りだねぇ」って、離れていてもすこし「いま私のいる場所」を頭で描いてくれている事が嬉しくて、離れていても少し近い所にいる感じがする。

「うるさかったねー」「でも電車走ってるから仕方ないよー」なんて、当然のような。でも同世代、周りからそこそこ頼られる年頃のオトナにしては、どうしようもない会話を交わして、意味の無さが楽しい。


今度は友人の「今」に意識を傾ける。
友人はビジネスホテルに早めに入って、服を軽く脱いで、ユニットバスにお湯を張りながら、ビールの350缶を開けた所だという。
あの子は喫煙者だ。安ビジネスホテルの喫煙ルーム、消臭剤では消しきれないタバコの匂いを鼻の中に思い描く。
なんでビジホの喫煙ルームって、あんな匂いがするんだろうな。ケミカルで上書きされた匂いは往生際の悪い努力だ。

それから、風呂の湯が溢れそうだって、電話越しの友人がビールの缶を置いて、ワタワタと慌てながら動く。

FRP製の浴槽にシャワーの金具がカツンと触れ、すごくユニットバスの音がした。「あ!!!」
私はこの音で今いる場所を見失いかけた。生々しい生活の匂いや音、それは浅い催眠術にも似てて、私まで、友人と同じ安ビジネスホテルの一室にいるような錯覚がして、一瞬、距離も消え去った。ここは友人の「今」だ。


そう簡単に世界は収縮しない。けど不思議。
私たちは、町の匂いとか、音とか、写真とか、言葉とか、いろんな記憶やイメージを駆使しながら、いろんな町を飛び交う事が出来る。

いやでも、友人もそこら辺の演出を地味に「わかってる」ヤツかもしれない。地味に長いもんな。たまにハプニングを挟みつつ、私のツボを無意識に押さえてくるのなら、おもしろいヤツよ。

雨が降る

雨が降る。
透明のビニール傘を開くと、ふと、20代の頃の恋人を思い出す。
昔の恋人、親戚に傘屋がいたりして、傘は勿論だけど、カバンだとか、文房具だとか、身の回りの持ち物にやたらこだわりのある人だった。

でもふたりで池袋かどこかに出掛けてる途中、急に雨が降ってきて、その場しのぎで買ったビニール傘を開きながらも、
「ビニール傘、見上げると雨が降って来るの観れて、たのしいな」
「傘ごしに雪を見上げてもおもしろいんじゃないかな」と、次々に私には無い視点から話をしてくる。

付き合い始めた頃かな。いや違う。この人の事を好きになり始めたころの思い出だ。だから忘れられない。
人をすきになっていく感情と、雨と、私が持ち得てない視点に飲み込まれていく感じ。
あとは単純に「ビニール傘ひとつでこんなに楽しがってる人、そうそういないな。」って、彼の感じる心が羨ましかった。羨ましさ。

だから未だに、透明のビニール傘越しに雨粒を見上げては、クスッと笑う。真似してんな。って。


旅先で雨が降る。
でも私は傘を買うことを躊躇する。
私の旅はたいてい電車旅だけれど、電車に乗りながら、次の次の目的地くらいで雨が止んだら、コイツは用無しになってしまうんだろうな。
そして用無しになった傘は無意味な杖で、旅の友であった事も忘れられては、電車に置き去りにされてしまうのかな・・・と、用無しにされた傘目線で色々考えては胸苦しくなる。

けど、そんな事を年下の友人に話したら、
「そうじゃなくって、傘だけ旅を続けてるんだよ」「傘だって、家に帰りたくないんだよ」と言われて、私はハッとした。傘目線といいつつ、何目線を考えていたのだろう。

旅先で私の不注意から別れてしまったその傘も、どこかで楽しい旅を続けているというのなら、それはそれで一興だ。たのしい迷子、もしくは雨傘自身が送る一人旅のプロローグ?

そしてその答えを聞いた時、若さ、伸びやかさのある年下の友人のそれに対して、情の重さと反比例して、歳と共に自由な発想というか、自由を求める発想が目減りしていた自分をひしひしと感じて悔しかったな。

まあその友人自体も、次から次と底無しにユーモアが出てくる子で、なのに可愛さがあってハートが熱い。ズルさの塊なんだけどさ。

もし今度、旅先で傘を買う機会があって、それが無意味な杖になりかけた時には、赤いリボンでもキュキュっと巻いて、一輪のバラでも差し出すかのように、旅の傘を安宿のおかみにでも、もしくは飲み屋の大将にでも寄贈しようかしら。困ったときは傘、うれしいし。


雨が降る、雨が止む。

コタツと人魚

私は昨夜酒を飲み、そのままコタツで寝落ちをしてしまった。寝起きが少しワケの分からない事になっていた。

まどろみの中、まず思い出したのが、住み込み時代にお世話になった、川口某所にあった寮の休憩室のコタツの記憶。
ココの休憩室は「川口まで来たけど、家に帰るのめんどいし」という時、勝手に第二の住居としていた所だけれど、冬はこの休憩室のコタツが私の寝床代わりになっていた。
第二の住居、駅からは少し遠いけれど、12畳3人部屋なんかよりはずっと広くて気楽。でも埼玉は都内に比べると、真冬の北風がうんと強い。窓のサッシがカタカタ鳴る。角部屋の最上階だから強風の日はモルタル壁ごと揺れる。

タツに入って、灯りを消す。深夜に目が覚めると、ここはツリーハウスじゃないかってくらいにまた揺れていて、心細さ、孤独も身に染みる。
でもそんな感傷に浸ってる余裕もなくて、あしたのために二度寝をする。


そして次に浮かんだのが、20代の頃の恋人と同棲していた、浦和の家にあったコタツの記憶。
少しおおきめなコタツで、恋人と一緒にテレビを見ながら、CMの合間とかに足や指を絡めるのも気持ちよかった。コタツの中でも、外でも。
だけど甘い記憶は、泡のようにしゅわしゅわと消えていき、肉体を襲う謎の不自由さに気が付く。


いま私がいる場所、実際のコタツはうんと小さい。右を下にしながら横たわっていて、左右の膝を並べながら軽く折った両足。
気付いたら、まるで砂浜に打ち上げられた人魚のようだ。
人間の姿になった人魚には声が無い。
私も話下手であまり「声」を自由に扱えない時がある。とても苦しい。

でも私は人間で、そこには文字があって、声を出さなくたって、画面の中で私の声が鳴っている。
だから大丈夫、悲劇は起きない。

人間には文字や言葉があるから、「声をなくした」と失望の中で死ななくても済むし、もしかしたら肉体をなくしても、この声は、どこかで鳴り続けるものかもしれない。

私は人魚の夢から人間に戻りつつある。
起き上がって、冷たい水を飲みに行く。私は人間だ。