コタツと人魚

私は昨夜酒を飲み、そのままコタツで寝落ちをしてしまった。寝起きが少しワケの分からない事になっていた。

まどろみの中、まず思い出したのが、住み込み時代にお世話になった、川口某所にあった寮の休憩室のコタツの記憶。
ココの休憩室は「川口まで来たけど、家に帰るのめんどいし」という時、勝手に第二の住居としていた所だけれど、冬はこの休憩室のコタツが私の寝床代わりになっていた。
第二の住居、駅からは少し遠いけれど、12畳3人部屋なんかよりはずっと広くて気楽。でも埼玉は都内に比べると、真冬の北風がうんと強い。窓のサッシがカタカタ鳴る。角部屋の最上階だから強風の日はモルタル壁ごと揺れる。

タツに入って、灯りを消す。深夜に目が覚めると、ここはツリーハウスじゃないかってくらいにまた揺れていて、心細さ、孤独も身に染みる。
でもそんな感傷に浸ってる余裕もなくて、あしたのために二度寝をする。


そして次に浮かんだのが、20代の頃の恋人と同棲していた、浦和の家にあったコタツの記憶。
少しおおきめなコタツで、恋人と一緒にテレビを見ながら、CMの合間とかに足や指を絡めるのも気持ちよかった。コタツの中でも、外でも。
だけど甘い記憶は、泡のようにしゅわしゅわと消えていき、肉体を襲う謎の不自由さに気が付く。


いま私がいる場所、実際のコタツはうんと小さい。右を下にしながら横たわっていて、左右の膝を並べながら軽く折った両足。
気付いたら、まるで砂浜に打ち上げられた人魚のようだ。
人間の姿になった人魚には声が無い。
私も話下手であまり「声」を自由に扱えない時がある。とても苦しい。

でも私は人間で、そこには文字があって、声を出さなくたって、画面の中で私の声が鳴っている。
だから大丈夫、悲劇は起きない。

人間には文字や言葉があるから、「声をなくした」と失望の中で死ななくても済むし、もしかしたら肉体をなくしても、この声は、どこかで鳴り続けるものかもしれない。

私は人魚の夢から人間に戻りつつある。
起き上がって、冷たい水を飲みに行く。私は人間だ。