簡単なトリップのはなし

今年のゴールデンウイーク前。
どうせ新型コロナウィルスの影響で旅行に出られないのなら「家で旅行すればいいよ」だなんて、よくわからない事をつぶやいてしまった。

いや、これにもすこしやり方はあって「自分の家をなるべく、嗅覚から変えていく」。
例えばシャンプーやボディソープを普段使ってるものじゃなくて、コンビニで個包装されてる旅行用の、いつもと違うシャンプーにしてみたり、ちょっとお香を焚いてみてもいい。特に白檀系のお香は寺院なのか、高級旅館の匂いにも似てて、割と遠くに行ける。

そしてさらにひと手間を掛けるなら「寝室の寝具を、普段使ってる柔軟剤と全く異なる香りのもので洗って、寝室に持ち込む」。
これだけでも、びっくりするくらい眠りの印象が変わる。

目を閉じて、布団の中で丸まれば、一番の情報は嗅覚だ。
視覚・聴覚が夜に溶ければ、ここはここじゃない。

この布団もどこかの民宿で、少し張り切った若女将が用意してくれた、特上の家庭的な「おもてなし」なんじゃないかって、まあいくらでも想像はできる。
そして布団に包まりながら、あしたの旅程なんて考え始めたらパーフェクト。とびきりの旅行が約束されかけてる。


でも私はやらかしてしまった。
夕方5時台の晩酌は危ない。いま家には誰もいないから、余計に私は遠くに行ける。
ベランダから差し込む夕方の光が、レモン酎ハイの入ったグラスを透過して、シュワシュワの液体を白く濁らせ、輝かせてる。
この白い濁りは叩きつける波の色、遊泳禁止の海のうねりを思い出して、ハッとした。
この液体を我が身に含んだら、どうなってしまうんだろう。私はすこし嫌な予感を受けた。

「ちきしょう。ああやっぱりだ」
いつも以上に、頭が揺れる。頭だけじゃない、オミソもうねりを伴いながら、揺れている。
そして日常のこわばりが抜けて、脱力しきった身体は軟体動物に近づいて、ぐにゃんぐにゃんになっていく。ついでに視界も割とあやしくなってきた。
ああ、このまま私は人類の進化を無視して、私が私であたらしい生きものになってしまうのか。
スッと手元に視線が落ちると、グラスを持つ腕からもう、有り得ない熱と赤みを帯びていて、私からどんどん「人間としての私」が遠ざかっている。

ただ今は、誰も見てない何にもすがれない。
唐突に半裸になって、ベッドの上に飛び込んでも、何も変わらない。

そして今度は人畜無害なはずのEテレの音声が私を惑わせる「オーケー、次は昆虫のはなしかい?」
私のオミソは酔いの中で、また何かにメタモルフォーゼしたがってる。
頭!胸!胴!もう全てがグデングデンの、ギチョンギチョンで、これ以上どこか彷徨う必要もないのに。

カーテン越しでも日は落ちて、無灯火の寝室ごと薄暗くなっている。視覚が夜に溶ければ、ここはここではなくなりそう。
肢体ごと夜に溶けて、オミソまで跡形もなく夜に溶けてしまったら、私はきっとどこにでも行けるし、何にだって化けれる。
……でもちょっと怖いよ。
私が私じゃなくなったら、今まで私が私だったこともなんだったんだ!って、急に怖くなっちゃうよ。
そして誰にも気付かれず、闇が重い。

だけどいくつかの匂いが混じる寝室の中で、どこか落ち着く匂いが漂ってる。
寝返ると顔にスーッと掛かる黒髪。ああコレは髪に染み付いた、白檀のお香を焚いた時の匂いだ。
それは寺院の中にでもいるような、静かに邪が取り払われていく香りで、心安らぐ香りで、私はお香の焚かれた私の髪を、一本一本鼻先で辿りながら、人間の器を取り戻していく。
ああ辛うじて、現世に繋ぎとめられた。


逢魔が時、簡単なトリップのはなし。
私は遊泳禁止な初夏の海を呑み込んで溺れかけた。
でも結局、私のオミソは未だに揺れ続けてる。